Tabon-Rien’s blog

徒然と雑然と

もっこ橋

 先日行った京セラ美術館で開催されていた「アンディ・ウォーホル展」のスピンオフ版として「もっこ橋」について、備忘録の意味と何だかこのこと書きたいなという気持ちが湧いたため記す。

 ウォーホル展を後にし、子供と供に東山周辺を散策。本来ならば、平安神宮を起点に東側の南禅寺周辺がメインの散策エリアとなるが、普段通らない地道を中心に今回は知恩院方向に向かう形で散策。

 その中で、神宮道を西へ横断し、仁王門橋を渡り白川沿いを南下。水も少なく、浅瀬の川がなだらかに続く中、対岸に向けて簡易な人道橋のようなものがあった。

 田舎にある川で隔てられた道や、田や畑を渡る時に架けられているちょっとした橋。京都の市街地で見るには、余りに珍しいなと感じていたら、民家の壁に何やらプレートのようなものが貼られており、見ているとその橋の名前が書かれていた。その名も「もっこ橋」。

 「もっこ」とは、昔の持籠(もちこ)の詰まった言葉で、藁筵(わらむしろ)の四隅につり、縄紐を付け、天秤棒に吊って土砂や農産物等を運ぶ用具のことを指す。

 明治31年(1898年)、京都で最初の製氷工場「龍紋氷室(現 ポルト・ド・岡崎の敷地)」が建設され、時代の変遷の中、社名も変わりながら昭和55年(1980年)まで製氷工場として稼働。当時の製氷方法としては、気体アンモニアを圧縮し氷点下にする製造方法が主流であったとのこと。

 その氷の保存・運搬過程の中で、湿った「おが屑(鋸切りからでる木屑)」をもっこに盛って、二人の人夫が前後で担ぎ、天日干しにするために対岸にあった広場(現 文教小学校校庭)に運んでおり、対岸に運ぶ通路として架けられ、使用されていたことに橋の名は由来するとのことであった。

 なお、当時は氷が溶けるのをどう防ぐかが大きな課題としてあった。そんな中、当時注目されたのが熱伝導率の低いおが屑であったが、氷の需要が一気に高まったことを受け、おが屑の需要・価格も連れ高となり、おが屑の確保が困難であったとのこと。

 おが屑の供給量は限られている。買うこともできるが、当然値段は高い。そういった中、一度使用して濡れたおが屑を天日乾燥の上、再利用することで、おが屑の確保と商売の機会ロスを減らす。天日乾燥するには大きな広場が必要で、その場所は川向いにある。当時の事業者がひねり出した知恵や工夫の産物として、この橋があるのだなと思うと中々、味わい深いものがあった。

 また、こういった歴史の一端に触れる機会を提供してくれた「もっこ橋」の紹介・案内プレートは非常にありがたかった。

 日常の中に根ざす歴史の一端に触れる機会、そして、それらが何らかの形で記録されていること。歴史の一端に現地で触れる、ネット等の仮想空間を通じ触れる。どちらも一長一短あるが、やっぱりこれからも現地でそういった息吹に触れたいなと感じたアンディ・ウォーホル展からの「もっこ橋」のエピソードでした。

 その他にもプレートには、夏場の氷に関する世情や人々の意識の変遷等が記載されており、この周辺を散策される方は一度、ご覧になられてから散策してみると良いかも。周辺ちょっと隠れ家的な素敵なフレンチの店もありましたんで、次は一度ご飯を食べに行きたいなと思いました。

 ちなみに、ブログに記載しているもっこ橋の由来に関する記載については、『「水車の竹中みち」実行員会』さんという団体が、恐らく設置された案内・紹介プレートから引用しています。同実行委員会さんへ多謝。合唱。

もっこ橋 案内板の一部抜粋(全ては一度現地でご覧ください)